ケーベル先生略歴
ラファエル・フォン・ケーベル
Raphael von Koeber(1848-1923)
ロシア出身の哲学者(東京帝国大学哲学科教授)・音楽家(東京音楽学校講師)
主要な著作(日本語で読めるもの)
『ケーベル博士小品集』深田康算・久保勉訳、岩波書店(大正8年)
『ケーベル博士続小品集』久保勉訳、岩波書店(大正12年)
『ケーベル博士続々小品集』久保勉訳、岩波書店(大正13年)
『ケーベル博士随筆集』久保勉訳、岩波書店(昭和3年)
ラファエル・フォン・ケーベルは、明治政府のお雇い外国人教師として1893年(明治26年)に来日し、以来21年もの長きにわたり東京帝国大学(現・東京大学)で哲学、美学、西洋古典学を講じました。またその間、東京音楽学校(現・東京藝術大学)でもピアノ、音楽史を教え、自身もピアニストとして数多くの演奏会に出演しました。
学生たちからは親しみを込めて「ケーベル先生」と呼ばれ、彼のもとから哲学の分野では西田幾多郎・姉崎正治・阿部次郎・安倍能成・和辻哲郎・岩下壮一・波多野精一・岩波茂雄、音楽の分野では滝廉太郎・幸田延・橘糸重をはじめとする数多くの優秀な弟子が輩出されました。
ケーベル先生年譜
『ケーベル会誌』創刊号に掲載の島尻政長先生による「ラファエル・フォン・ケーベル年譜」から一部抜粋
・1848年 0才
1月15日、ロシア・ニシュニイ・ノヴゴロット(現ゴーリキー市)に生まれる。父・グスターフ・ウィルヘルム、母マリア。 1才の時に母親の死去のため祖母(母方の)に引き取られ育てられる。
・1854年 6才
この頃からケーベルは祖母からピアノを習い、その後ニシュニイ・ノヴゴロットの新教教会・オルガン奏者バウルから習う。その後、この地のギムナジウムに入学。
・1867年 19才
モスクワ音楽院入学。その頃のモスクワ音楽院の教師は次の通り。ニコライ・ルビンシュタイン(創立者、ピアノ、 指揮)、ヴィニヤフスキー(ヴァイオリン)、ドール(ピアノ)、デュビュク(ピアノ)、クリントヴォルト (ピアノ、1868年から1880年まで) 、ズヴェレフ (ピアノ、 1870年から1893年まで)、 ラロシ・ゲルマン・アウグストヴィッチ(理論、1867年から)、カシキン、ニコライ・ドミトリヴッチ(音楽史、1866年から1896年まで)、チャイコフスキー(作曲、1866年から1877年まで)。
・1872年 24才
モスクワ音楽院を卒業。この年にイエナ大学に入学。 イエナ大学ではエルンスト・ヘッケル、アツベに師事、他にオイケン、オットー・フライデラー、フォルトラーゲ、ユーリウス・ワルターに師事。
・1875年 27才
ハイデルベルク大学に転ずる。クーノー・フィッシャーに師事。
・1881年 33才
ショーペンハウアーについての論文で学位を取得する。
・1884年 36才
カールスルーエ音楽院の教師となる。 ピアノ、 音楽史、音楽美学を教える。「ハルトマンの哲学体系」を出版。この年のうちに、ケーベルはミュンヘンに移り、カールスルーエ音楽院を去る。
・1893年(明治26年)45才
ハルトマンの推薦により東京帝国大学の哲学の教師として来日することを決意。4月30日ドイツ発、6月11日、神戸着。住居は駿河台鈴木町19番地。同年9月、大学の講義始まる。
・1896年(明治29年) 48才
住居を駿河台から小石川植物園裏(白山御殿町108番地)に移す。
・1898年(明治31年) 50才
3月、奏楽堂で慈善音楽会。5月から東京音楽学校でピアノ、音楽史を教える。
・1901年(明治34年) 53才
4月、音楽学校奏楽堂で音楽会。ケーベル、ピアノ独奏。
・1902年(明治35年) 54才
住居を植物園裏から元の駿河台鈴木町に移す。深田康算が学僕として同居(9月)。
・1909年(明治42年) 61才
9月、東京音楽学校を退職。
・1911年(明治44年) 63才
4月3日、久保勉、ケーベル宅に同居を始める(学僕)。7月10日、夏目漱石がケーベル宅を訪ねる。
・1914年(大正3年) 66才
7月31日、東京大学との契約が切れ、退官。7月15日、晩餐会、 漱石も出席。8月9日、駿河台の住居を引き払い、横浜のロシア総領事館に移る。8月12日、ミュンヘンへ出発の予定。しかし、第一次世界大戦のため延期され、「蝸牛生活」 が始まる。
・1919年(大正8年) 70才
「ケーベル博士小品集」(久保勉、深田康算共訳)
・1923年(大正12年) 75才
「ケーベル博士、続小品集」(久保勉訳編) 6月14日、死去(狭心症)。 墓地は雑司ヶ谷霊園。
・1924年(大正13年)
「ケーベル博士、続々小品集」(久保勉訳)
・1928年(昭和3年)
「ケーベル博士随筆集」(久保勉訳編)